球面性の欠如ーー横山宏介小論

1991年生まれの横山宏介は、これまでに書いた数本の論考のなかで既に自らのスタイルを確立しているという意味で、まぎれもなく批評家の素質を備えているのかもしれない。そのスタイルとは、往々にして「やり過ぎ」とさえ映じかねないほどの形式主義である。たとえば手元にある雑誌『クライテリア』1号に掲載された「三三三三・三+一+一一一一」という論考は、スコリモフスキの映画、阿部和重福永信の小説に登場する「●」マークと数字をめぐって、アクロバティックな論理を展開するものだ。この文章が、いわゆる「現実の変革」だとかを謳っているものでないことは、タイトルからして明らかだろう。彼が一貫して行っているのは、テクストの表面で何が生起しているかを見つめ、それらを(やや強引に)纏めあげるという作業のみであり、読む者はその手つきの見事さに舌を巻いたり、あるいはついていけなくなって本を手放すかのいずれかだろう。その塩梅に関しては、書く文章によってまだぐらつきがある書き手ゆえ、ここでは特に問題としない。代わりに私が指摘したいのは、彼の批評が根源的にかかえる、ある種の「薄っぺらさ」あるいは「虚しさ」とでも言うべきものである。

先述の論考「三三三三・三+一+一一一一」において、「●」マークは異なる場面を切断し、かつ接続する役割を持つ記号、あるいは作品のメタ的レベルに位置する「不在の中心」として定義されていたが、この「●」の役割が、書き手たる横山の存在とそのまま等号で結べることは、それほど想像に難くない。様々なテクストを横断的に操りながらニヤニヤしている「俺様」としての批評家ーー意地悪く言えばそうも言えるかもしれないこの存在が、読者を白けてしまわせがちーーと、そう難じて筆を擱くことも可能ではあるが、ここではもう一歩踏み込みたい。横山は、阿部和重の短編集に解説を寄せる福永信の次のような言葉を引く。

「ところで、全然関係ないが、著者の作品にはしばしば●が登場する。本書にも登場しているが、これはなんだろうか。[…]わたしの見立てでは、これは、あれじゃないだろうか、立体視を促しているんじゃないだろうか。[…]あくまだ平面でありながらもなんとかこちらの三次元世界へと踏み出そうとする著者の姿勢のあらわれではないか[…]」

そして横山はこう続ける。「福永は阿部作品の空隙が、二次元に対する「三次元」=メタへの志向であることを見抜いている」。だが私は横山のこの読み(強引な解決)に疑問をおぼえる。横山は、あくまでも作品を二次元の場としてとらえ、三次元性を、その作品についての視点、というふうに解している。これはこれでひとつの見方であるが、より素朴に福永の言を読めば、それはむしろ「●」の平面性ではなく「球面性」(立体視)への着目なのではないか。
「球面性」ーー私が横山の批評に一貫して欠けていると感じるものは、この球面性に対する感受性である。それを仮に作品の「手触り」と言い換えてもよいかもしれない。文芸批評を主なフィールドとする横山は、あくまでこう抗弁するかもしれない。「書かれたものでしかない文学を、たとえば「想像力」などと言ったタームでもって現実と安易に癒合させるな」と。それはその通りである。だが例えば映画を考えてみよう。それは三次元から二次元への移し換えによって初めて成る芸術であるし、それだけではなく、映画には「重さ」の感覚や「時間」の感覚など、映し得ない、しかし映し出されてしまう「何ものか」の手触りが確実にあるのだ。横山の批評は、ーーたとえそれが「表象のリミット」を探求すると謳うものであれーーそういった点を完全にオミットすることによってしか成り立たず、はっきり言ってしまうと、そのせいで彼の映画論は極端につまらないものとなってしまっている。「三三三三・三+一+一一一一」を書くことでで「自分のやりたいようにやり切った」(大意)と述べた横山が次にどんな批評を書くか、それが読者や作家の「現場」にもう一歩近づいたものになればと、一読者として期待している。

※補足的に書けば、私は横山の数年来の友人である。彼の卒論も修論も、期末レポートの大半まで(!)読んできた。そんな私が長年抱えてきた彼への尊敬の裏にあった違和感を、ここで文章化してみようとふと考えた次第である。よって、ここに書いたことは彼への直接的な批判という色合いよりも、なかば以上自戒でもあり(何しろ同じ指導教官のゼミ生だったのだ)、そうした個人的な事柄よりも何よりも、私が言いたかったのは「小説と映画が同じようには論じられるはずもない」という点でもあって、この点については私は(主に映画の側から)アプローチを深めていきたいと思っている。