シネマトリョーシカ(第一回)

たとえばジャン=リュック・ゴダール監督の映画『気狂いピエロ』の終盤、船着き場に登場する喜劇俳優レイモン・ドゥヴォスが主演のジャン=ポール・ベルモンドに“Est-ce que vous m'aimez?”と歌いかけ、「このメロディーが頭から離れなくなってもう何十年も経つんだ!」と訴えるのにも似たように、彼の頭蓋にもまた、ある種の妄念めいた一連の言葉が執念く纏わりつき、折にふれて彼をいっぱいに満たし、まるでペドロ・コスタの映画の登場人物たちのような静かなる狂気がおとずれ、というのも彼にその言葉が降り注ぐやいなや彼の体は指先を始点としてびくびくと徐々に震え始め、抗癲癇薬あるいは喫煙具の類でも与えなければそれは永遠に止まらないのではないかとさえ思えるほどに激化することさえあるのだが、ストローブ=ユイレの映画で不意に挿入されるあの忘れがたい波のショットのごとく、彼にもまたふっと波が引いたような落ち着きと静寂が取り戻される瞬間がおとずれるので、周りの者は、やはりストローブ=ユイレの映画を観る時に似た反応でもって、すなわち今目の前で起きている何事かが奇妙であることは間違いないのだが、それでいてそれをどこか神々しい現象ととるべきか、それとも何か禍々しい事柄と受け止めていいのか判断がつかず、いささか白けた態度で見守るものもあれば、または彼に尽きせぬ魅力を感じ、まるでアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』やミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』を初めて観た大学生のように、彼を卒業論文の題材にしたがる者まで現れるという噂さえあったらしいが、ところで問うべき事柄は二点あるはずで、ひとつは彼の括弧付きの「病」がいったい如何なる種類のものであるのか、という点であり、これに対しては、精神分析に通暁する者ならずとも、そこに何らかのトラウマを読み込んだりすることは容易であろうが、これと関係して更に興味深いもうひとつの点というのが、レイモン・ドゥヴォスの場合の“Est-ce que vous m'aimez?”に相当する言葉を、彼がいっこうに思い出せないということであり、この男を縛りつける不在の言語というものがわれわれの前には依然として大きな謎として君臨しているのだが、[以下続く]