仮面劇(の限界)としてのスターウォーズ

これからスターウォーズシリーズについての私感を述べます。対象とする作品は、ep1-8の8作品で、付随するシリーズは未見ゆえ除きます。筆者の記憶違いもあるやも知れないので、その点はご寛恕をお願いいたします。なお、不要な文句だとは思われますが一応付け加えておくと、ネタバレありです。

物語構築的な面から見て、ep1-6の初期シリーズと比べて、ep7以降の(いまのところ)2作が、圧倒的に「個人」の内面を描く感情ドラマになっていることは明らかです。その点を掘り下げるだけでも、多角的な(たとえば政治的、社会反映的な)分析が可能だと思いますが、私は今回それを、画面に映し出されているものの側から、そしてそれが「物語」と切り結ぶ臨界(リミット)を通じて語ってみることを試みます。前者については、分析に政治、社会、思想的な文脈をできるだけ持ち込まない、という程度の意味ですが、後者についてはどういうことか、少し説明が必要でしょうか。凡庸な例ではありますが、たとえばep6のクライマックス、ルークスカイウォーカーとダースベイダーの戦いが、もし戦闘機による空中戦だったとしたら、果たしてどうでしょう。観客は興醒め間違いなしです。そこでは下手をすれば、父と子のドラマも、ベイダー卿の正体も映せず、「ピューンピューン」というあの聞き覚えのあるブラスター(ビーム)音と、撃墜したどちらかの戦闘機が映されるのみで、二人は永遠に言葉を交わすこともなく、死すべきどちらかは、あの狭い機内で爆死するのみです……。こんなスターウォーズ、誰も見たくないですよね。つまり言いたいのは、主人公と悪役の最終対決は絶対に、(スターウォーズの場合ならライトセーバーを用いた)肉弾戦でなくてはならない、ということです。これは、一言で言ってしまえば「お約束」、ということですが、私はこの「お約束」というものを存外真剣に捉えており、それは「物語」と「画面」(批評の文脈においては、しばしば両者は相容れないものであると誤解されるように思われるのですが、そうではないはずです)との紐帯をなすものだと、おぼろげながら考えています。前置きが長くなりましたが、今回はそのことを、スターウォーズシリーズに頻繁に登場する「仮面の着脱」というモチーフを通じて考えていきたいと思います。

もちろんスターウォーズにおける「ナンバーワン仮面の着脱」といえば、ep6においてダースベイダーが倒されその正体を現す瞬間ですが、ここで初めて冷徹なベイダー卿の文字通りの人間味、一抹の正義の心が垣間見えたことは、わざわざ論じる必要もないほど自明なことです。今やホラー映画の枠組みを超えて巨匠と言うべき映画監督の黒沢清が、「恐怖」というものについて、それは「それがなんだか正体がわからないもの」のことであるという旨のことを書いていたと記憶していますが、その言葉どおり、仮面とはその奥の「顔」(ちなみに「仮面」について考察した哲学者に坂部恵がいますが、「顔」もレヴィナスなど哲学者にとって考察すべき対象でした)の表情を覆い隠し、「なんだかわからないもの」にしてしまう装置です。その意味において「仮面」は「悪」の側に位置付けられる、と普通なら考えてしまいがちですが、私はそうでないと考えます。スターウォーズシリーズの転換点(というか、個人的に頂点)をなすと考えられる4作目のep1で、とりわけ、一話限りで死してしまうことが惜しまれる悪役ダースモールのことを考えてみましょう。彼(?)は全身に赤と黒のタトゥーを施した、人間とはまた異なった種族という設定だそうですが、彼はそうしたモンスター的キャラの中でも例外的に「カッコいい」存在であり、またこのタトゥーという設定も、仮面と素肌の中間をなすものとして興味深いのです。一見すると、「仮面と素肌の中間」を、「正義と悪の中間」というふうに捉えてもしまいそうなものですが、そうではありません。むしろ、仮面の着脱のドラマを生きるベイダー卿などの方が、よっぽど善悪に揺れ動く文字通りの「人間」であり、着脱の軸に最初から属していないダースモールこそが真の絶対悪(善悪の彼岸?)と捉えることもできるでしょう。いずれにせよダースモールは、スターウォーズシリーズが産み出したもっとも秀逸なキャラクターの一人であると私は考えます。
さて、話は変わりますが、新シリーズとなったep7において、仮面的な観点から見て革新的だった設定は、一介のストームトルーパー(白い仮面をつけた敵ザコキャラ)の中に、フィンという反逆者(しかも黒い肌を持った)がいた、ということです。この転倒性は、ep7の中盤あたりで、ベイダー卿の遺志の象徴であったはずのあの黒いマスクをあっさりと脱ぎ捨て、その白い肌をあらわにするカイロレンとぴったり対称的です。これまでのスターウォーズは、「仮面とその奥」というテーマで「もって」きました。ep4-6におけるダースベイダーの正体をめぐる謎はもちろん、ep1-3において、ベイダー卿の背後にいるダースシディアス(シス)もまた、仮面をつけてはいないにせよ、フードを深くかぶり、観客に顔を見せない存在として描かれていました。そしてそれが、シス=パルパティーン議長、というep3でのいわゆる「オチ」、観客の驚きにつながるわけです。ところがep7に登場する最高指揮官スノークは、ep7ではかろうじてその実体(とりわけ体の寸法)が不明瞭なものとして描かれていましたが、ep8になるとあっさりその実体(顔だけでなく、文字通り体の寸法も含め)をあらわします。そしてまたあっさりと(恐らくは大方の観客の予想どおり)レンによって殺されます。なぜ予想がつくかと言えば、アンディサーキス(ロードオブザリングのゴラム役などで有名な俳優)によって演じられた「このテの」キャラの魅力は、その実体が見えないという一点にのみ存するのであり、一旦その姿をあらわにしてしまった以上、こういった生物がその後の物語を牽引していくことは、人間的あまりに人間的な商業映画においては考えられないからです。
ここまで考えてきた初期シリーズとep7以降のこの「断絶」、すなわち「仮面の着脱のドラマからその放棄へ」の趨勢については、さまざまな解釈の仕方があるでしょう。ここでは敢えてこれという意見を述べませんが、その代わり、最後に少しだけ話をずらし、仮面劇の放棄がもたらした、物語的なある「倫理」について、私見を述べておきたいと思います。

ストームトルーパーが何百体と殺されても、それを見る観客が暗澹たる気持ちにならないのは、彼らが仮面をつけた、「顔」のないロボット(実際は人間ですが)だからです。その意味で、そのストームトルーパーに顔があったんだ!ということに否が応でも気づかされることとなったフィンの登場は、大げさな言い方をすればひとつの革命的事件であったのかもしれません。批評家の大塚英志が、「アトムの命題」と名付け、漫画においてどんな強烈な攻撃をくらっても傷つかないはずの身体に血が流れたことの衝撃を論じていたことなども想起されますが、いずれにせよ私たちはストームトルーパーが人間であることを知ってしまった。そのうえで、まだ楽しくあの映画世界に浸れるのか。これは観客に(あるいは製作陣に?)突きつけられたひとつの倫理的問いかもしれません。
最後にもう一点だけ。私は大衆娯楽映画は、基本的には、上記のような細かいことは考えずに楽しめばよいものだと思ってはいますが、それでもep8で「許せなかった」=自分の倫理観に抵触した点がひとつだけありました。それはラストシーン近く、敵軍の巨大キャノン砲を身を呈して止めにかかったフィンを、本作でそのよき友人=パートナーとなったローズが、これまた身を呈して守るというシーンです。記憶に間違いがなければ、その直前には多くの味方を失っていくシーンがあり、そいつら(と敢えて呼びましょう)の死はコンマ何秒で片付けられていたのに対し、その中でのフィンとローズの接吻。ああ、やっぱりこいつらが主役の待遇を受けてやがるぜ、まったく…という死者たちの嘆き(?)を、私なりに代弁しておきたかった。ちなみに、この許せなさに似たものはピータージャクソン監督の作品にも感じるものであって、たとえば『キングコング』などで、殺される直前になってわざわざ、そいつの生い立ちや心情が語られる、というパターン。つまり、感情移入させておいて、突き落とす。作者は観客を意のままに「釣って」いるわけです。ほかにも、殺されるためにわざわざ登場するキャラクターなど、見ていてどうしても許せなくなる作劇や演出が私にはありますが、皆さまはどうでしょうか。この問いは、予告した通り多少話のずれた付随的なものではありますが、本質においては繋がりを持ったものだと(そして話はスターウォーズに限らず普遍的なものだと)私は考えています。